熊本名城めぐり12018年02月10日 15:47


熊本名城めぐり1


1月29日朝一番で霧島温泉を出発、人吉に向かうがナビはえびの方面を指示するが途中で降雪のためチェーン規制の標識が出ておりターンして国分方面へ出て九州道経由で人吉城に到着した。


人吉城



人吉城は鎌倉時代のはじめ、源頼朝の命を受け、人吉庄の地頭として着任した遠江国相良庄を出身とする相良長頼にり修築されたとされ、山城としての本格的な築城は、文明2年(1470年)頃、十二代当主相良為続の時される。





(歴史館から見た人吉城)


秀吉の九州統一後の天正17年(1589年)、二十代当主長毎が豊後の石工を招き石垣造りの城として改修、慶長6年(1601年)には本丸・二の丸・堀・櫓・御門まで完成し、慶長12年(1607年)から球磨川沿いの石垣を築き外曲輪が造られた。寛永16年(1639年)に石垣工事は中止されるがこの時に近代人吉城がほとんど完成したとされている。





(水の手門)


相良氏は天正15年(1587年)の秀吉の九州征伐に敗れ、降伏し球磨郡のみの支配を許された。関ヶ原の戦いで重臣相良清兵衛の機転により西軍から一転し徳川方についた。家康が天下をおさめたため幕末まで相良家が統治した。





(本丸跡)


本丸ははじめ高御城と呼ばれ、天守台に相当したが天守は建てられず、護摩堂が建てられ、先祖堂や時を知らせる太鼓堂、山伏番所が設置された。隣の二の丸に御本丸と呼ばれ城主の居館が建てられた。球磨川を水運に利用した船着場が7箇所設けられ最大なものが水の手門で年貢米などの出し入れに利用され、幕末には石垣の上部に西洋式のはね出し石垣(武者返し)が採用された。清兵衛屋敷で井戸のある地下室が発堀されるなど歩いて回ると意外と見ごたえのある城だった。


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