100名城登城登録完了2018年12月07日 13:23



100名城登城登録完了



2014年12月の定年が近づきはじめためた頃、この節目を機に日本全国を訪れてみたい思うようになった。といってもただツアーで回るのも物足りない感じがするし、空白がでる可能性もあったので何かいい方法はないかと探していた。そんな時にネットで「日本100名城に行こう」という本を見つけた。特にお城が好きという訳でもないが全都道府県に1カ所以上選定されており、スタンプラリーになっていることが決め手になり挑戦することになった。






はじめの頃は近場を車で見て回わることが多く、完全なお城めぐりが続いていた。中部や関東、四国なども1泊2日のマイカーでの小旅行を繰り返していた。1年で半分くらいは回ることができたがお城でけだは味気ないというか楽しさが足りないと思うようになった。同行者もそう感じるようになっていたと思う。2年目からは遠方になることもあり、鉄道や飛行機を利用し、現地ではレンタカーで移動し観光と城めぐりの両方を行うようにした。日程も2泊3日を増やしその地域の観光地や話題のスポットを交えて計画したため登城件数は伸びなかったがその分旅行を楽しむ事ができるようになった。





3年目母が亡くなったため1年間は自重したが喪明けの4年目からは隔月で旅行するようになった。奥方からの城見物なしの旅行もしたいという申し出もあり、東北ツアーに出かけたりしたため3年の予定だったが少し延びた。






11月16日~18日で中国地方(津和野・萩・岩国・広島・郡山・福山)に出かけた。100名城登城が完了すると話したところ息子達も同行すると言い出して長男は仕事の都合で16日の夕刻に合流したが家族4人での旅行となった。今回移動距離があったため少しハードにはなったが予定以上の観光もでき、最終日に福山城に登城して100名城登城完了となった。もう少し続けていたかったなとは思うが終わった感が先で、これといった感激はなかった。知人からもこの次はとか続100名城に挑戦とか聞かれたりするがもう終わりにしたい。奥方からも当分は旅行はしないよ、富良野以外はと言われている。100名城をまわっただけというのも寂しいので日本城郭協会の認定を受けることにした。その認定印が押されて戻ってきた。4年と3ヶ月の達成で2574番目の登録完了となった。

広島名城めぐり32018年12月05日 15:14



郡山城を出て福山城に向かった。福山城が今回最後の訪問場所であり、日本100名城の100城目の登城となった。


福山城


新幹線で福山駅を通るたびによく見ていた。いつかはと思いつつ眺めるだけの城だったが今回初めて訪れた。100名城の最後の城として選んだ訳でもなく、たまたま最終になっただけだがこれも何かの縁だったようだ。






(福山美術館から登り口)

福山城は元和5年(1619年)、徳川の譜代の水野勝成が入封し築いた城である。幕府は勝成を送り込み、資材の現物供与と資金支援までして毛利らの西国大名の監視・防衛強化を図ったと言われている。





(筋金御門)


福山城は標高20mの微高地に本丸を置き、二の丸、三の丸が囲む輪郭式の平山城である。天守は本丸の北隅に位置し、五重六階地下一階、別に二重三階の付櫓をもつ複合天守で壁面の東・南・西は塗籠、防御の薄い北は鉄板張だったとされる。戦災により焼失したが昭和41年に再建された。





(天守)


伏見櫓は将軍秀忠が伏見城松の丸にあった東櫓を移築させたと伝えられている。伏見城の城郭建築の遺構としては希有のものとされており、月見櫓も伏見城内にあったものを移築したもので本来は着見櫓だったとされる。水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代と廃藩置県にいたっている。城内をまっわて急いで広島駅に戻った。2014年8月19日に大坂城から始まった100名城めぐりも今回で無事に終えることができた。


広島名城めぐり22018年12月04日 17:59




三日目の朝、7時30分にホテルをスタート、郡山城に向けて走らせた。途中の道の駅で朝食のつもりだったが開店しておらず、道の駅内にあるコンビニで朝食を求め車内で済ませ、安芸高田市歴史民族博物館へと走った。


郡山城


安芸高田市歴史博物館には9時過ぎに到着した。博物館を見学後郡山城へと向かう。本丸まで徒歩45分となっていた。





(御蔵屋敷)


駐車場から徒歩で毛利一族墓所・毛利元就墓所、百万一心碑などを通り山道を登ると御蔵屋敷跡にでた。そこから二の丸を通って本丸へとたどり着いた。築城の時期は不明とされるが場内にあった満願寺や祇園社(清神社)などは築城以前に建立されており、15世紀後半には毛利氏の城として存在したとされる。






(三の丸跡)


当初は本城と呼ばれた東南の尾根上が城の中心で、元就が台頭した16世紀中頃に郡山全山を城郭化したとされ、本丸を中心として放射状に270以上の郭が築かれたと言われている。





(三の丸南東の石垣)


本丸、二の丸、三の丸などの中心部はかさとよばれ、元就や輝元が住んでいたとされる。中心部の周囲を勢溜の壇、厩の壇、釜屋の壇、姫の丸、釣井の壇、御蔵屋敷などが取り囲んでいた。





(本丸跡)


安芸国の国人領主であった毛利家を一代で西日本最大の戦国大名へとのし上げた毛利元就は三矢の訓え、百万一心など有名な逸話を残し、元亀2年(1571年)に生涯本拠地とした郡山城で75歳でこの世を去った。郡山城を歩いていて、つわものどもが夢の跡の芭蕉の句が脳裏をかすめた。

広島名城めぐり12018年12月03日 14:10



岩国城を出て広島城へと向かった。小一時間程で広島城近くの官庁街に着いた。市営中央駐車場に車を入れて二の丸表門から入場した。


広島城


広島には仕事で何度も来ていたがホテルが取りにくいというイメージが残っている。学生時代には友人と飲みに行ってそのまま酔った勢いで九州行の夜行列車に飛び乗り、所持金が少ないとわかり慌てて降りたのが広島だった。夜中にラーメンを食べ鈍行列車を乗り継いで倉敷、姫路城を見て帰った。今にすれば懐かしい思い出でその友人とは今年も忘年会で会うことになっている。






(二の丸表御門・御門橋)


毛利氏は南北朝時代から郡山城を居城とする一領主だったが元就の代には中国地方の大半を支配する戦国大名に成長した。後を継いだ孫の輝元は豊臣秀吉の聚楽第・大坂城を見物し、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能させる城郭の築城をはじめた。天正17年(1589年)4月15日に鍬入式を行い、天正18年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、輝元は入城を果たしたとされる。






(天守)


縄張は内堀に囲まれた巨大な本丸と馬出を兼ねた小さな二の丸が特徴的とされ、聚楽第を模したと考えられている。天守は望楼型の五重五階の大天守に東と南に小天守を連ねた連結式天守だった。天守は昭和20年8月6日の原爆によって倒壊したが、昭和33年に大天守のみ復元された。






(二の丸側からの表御門)


関ヶ原の合戦後、輝元が周防・長門に移封され、代わって安芸・備後二国の領主として福島正則が入城した。外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させたとされる。洪水で破損した広島城の修復許可の不備をとがめられた福島正則は元和5年(1619年)に芸備二ヶ国を没収されている。





(内堀からの天守)


福島正則に代わって和歌山から浅野長晟が安芸一国・備後半国の領主として広島城に入城した。以後、約250年間、浅野氏が十二代にわたって広島城主を勤めた。広島城の天守が原爆によって倒壊していたとは驚きだった。それ以前に取り壊されたものと思いこんでいた。暮れ始めた広島城をあとにして近くのホテルへと向かった。

山口名城めぐり22018年11月29日 18:01



翌日朝7時30分に出発、元乃隅稲荷神社、秋芳洞を経て岩国のオムカレーのランチを取り、岩国城に立ち寄った。


岩国城



錦帯橋に訪れたことはあるが、岩国城には登っていなかった。錦帯橋の臨時駐車場に車を入れ、錦帯橋を渡ってロープウェー乗り場に向かい、ロープウェーで山上で着いた。





(天守閣)


毛利輝元の家臣でであった吉川広家は毛利家が関ヶ原の敗戦で防長二国に減封に伴い出雲の富田城から岩国に転封された。岩国に入った広家は要衝の地横山の山頂に要害を、山麓に居館(御土居)を築くことにし慶長8年(1603年)に着工、慶長13年に完成した。







(復元天守台)


山頂のそびえる白亜の天守は3層4階の上に物見を置くという、桃山風南蛮造りの山城で藩の象徴として仰がれていた。元和元年(1615年)、幕府の一国一城令により天守は7年で壊された。以後は山麓の御土居(居館)で藩政が行われた。





(天守から見た錦帯橋)


現在再建されている天守は錦帯橋からの景観を考慮して本来の場所から南へ50m移動、ハワイ岩国市人会をはじめ、市民の多額の寄付により昭和37年に竣工した。





(大釣井)


本丸の西下の大釣井などを見てロープウェーで山麓に向かい、錦帯橋を渡って岩国城から広島城に向かった。