島根名城めぐり2018年11月24日 09:24




11月16日~18日に島根・山口・広島にでかけた。16日の朝、新幹線で広島に着き、レンタカーで津和野に向かった。以前、月山富田城と松江城にはきており、島根の名城めぐりでは2度目となる。昔、観光で萩・津和野がもてはやされた時期があり、小生自身若い頃に訪れた記憶があるが悲しいかな小生の勘違いで津和野は山口県だと思い込んでいた。




津和野城


広島駅から約2時間半で太鼓谷稲荷神社に到着。神社を見学して傍の津和野城リフト乗り場へ移動、観光リフトに乗って山頂の城跡へと向かった。




(山頂のリフト降り場近くの案内板)



津和野の築城は弘安5年(1282年)元寇警備のため、石見の国に入った吉見頼行によるものとされ、当時は土塁だけの原始的な山城だとされる。





(東門跡)


関ヶ原の戦いで西軍に従事し、敗れた毛利が防長二国に押し込められた際にその配下であった吉見氏も津和野城を退去し萩に移住した。その後、慶長6年(1601年)坂崎直盛が入城、、全域を石垣で強化し、出丸を増築するなど本格的な城づくりを行った。






(太鼓丸跡)


坂崎氏が千姫事件で改易のあとに亀井政規が4万3千石で入城し、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。坂崎氏時代に建てられた天守は貞享3年(1686年)の落雷によって焼失し、以降再建はされなかった。




(三十間台西側の天守台跡)


標高367mの霊亀山の急峻な山頂に、江戸時代に至っても、戦国時代の城郭形式がそのまま使われたことは数々の疑問があるとされるが、長州に対する目付役として監視させたためとも言われいる。

ガンバ大阪ホーム最終戦2018年11月25日 21:29




ガンバ大阪ホーム最終戦






11月24日14時キックオフ V・ファーレン長崎戦
前節8連勝で漸くJ1残留を確定したがきょうの試合が早くも今期ホーム最終戦。ほっとした途端に今シーズンも終わりで訳の分からない内にシーズンが終わったというのが正直なところだ。勝てば残留という試合で逆転負けして降格したシーズンの磐田戦とは違って、降格が決定した長崎が相手で気の毒だが落ち着いて観戦することができる。





アグレッシブに戦ってくる長崎に押し込まれながらも最後のところで仕事をさせずに何とか2-1で逃げ切った。9連勝中だが、強いとは感じないがそれでも最後まで粘りきれるというのは強い証拠なのだろう。嘗ての二川、遠藤、明神、橋本時代のダイアモンドの中盤からいつでも点が獲れるといった攻撃的なサッカーは見られないが、前半を凌いで、後半に得点をして図太く勝ちきる粘りがでてきた。クルピ監督のシーズン前半とはまったく違うチームを見ているようで宮本監督の采配が素晴らしかった。





宮本監督の言うようにまだまだいい時間帯が少なく相手に押し込まれる時間が長いが、来期はガンバのリズムで試合ができるよう立て直してもらいたい。それこそ奪還!来年に期待してスタジアムをあとにした。

山口名城めぐり12018年11月26日 16:29



津和野城を見学後、途中の道の駅で遅い昼食を取り、山道を急いでひたすら走り何とか萩城の閉園30分前に滑り込んだ。


萩城


駐車場は二の丸跡の外にあり、内堀からは一方通行のため大回りしなければならず、内堀沿いで下車、息子に車を任せて本丸門の料金所へ急いだ。どうやら4時30分で料金所は締まるが中には入れるようだった。とはいえスタンプは料金所に設置されていたのでギリギリだった。
10分遅れで来た奥方と息子は閉園前なので無料で入れてもらったそうだ。




(本丸門前から見た天守台跡)




関ヶ原の戦いの敗戦で西軍の総大将であった毛利輝元は中国地方の8カ国の領地を削られ、周防、長門の2カ国36万9千余石の領主に移封された。そこで輝元は居城として防府、山口、萩の3か所を候補地として徳川幕府の意向を伺い、萩指月山麓に築城することになった。




(本丸から見た天守台)




慶長9年(1604年)着工、慶長13年(1608年)竣工。これより文久3年(1863年)第13代藩主敬親が藩府を山口に移転するまでの260年間、政治の中心地であった。






(天守台から見た内堀と指月山山麓)



萩城は標高143mの指月山の山麓に本丸が築かれたことから指月城とも呼ばれた。城郭の構造は指月山麓の平城部分と山頂の山城の部分を合わせた平山城で五層の天守閣を備えていた。二の丸銃眼(鉄砲狭間)土塀などを見て今夜のホテルに向かった。








山口名城めぐり22018年11月29日 18:01



翌日朝7時30分に出発、元乃隅稲荷神社、秋芳洞を経て岩国のオムカレーのランチを取り、岩国城に立ち寄った。


岩国城



錦帯橋に訪れたことはあるが、岩国城には登っていなかった。錦帯橋の臨時駐車場に車を入れ、錦帯橋を渡ってロープウェー乗り場に向かい、ロープウェーで山上で着いた。





(天守閣)


毛利輝元の家臣でであった吉川広家は毛利家が関ヶ原の敗戦で防長二国に減封に伴い出雲の富田城から岩国に転封された。岩国に入った広家は要衝の地横山の山頂に要害を、山麓に居館(御土居)を築くことにし慶長8年(1603年)に着工、慶長13年に完成した。







(復元天守台)


山頂のそびえる白亜の天守は3層4階の上に物見を置くという、桃山風南蛮造りの山城で藩の象徴として仰がれていた。元和元年(1615年)、幕府の一国一城令により天守は7年で壊された。以後は山麓の御土居(居館)で藩政が行われた。





(天守から見た錦帯橋)


現在再建されている天守は錦帯橋からの景観を考慮して本来の場所から南へ50m移動、ハワイ岩国市人会をはじめ、市民の多額の寄付により昭和37年に竣工した。





(大釣井)


本丸の西下の大釣井などを見てロープウェーで山麓に向かい、錦帯橋を渡って岩国城から広島城に向かった。